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ヒーリングセラピストへの道・パート2

ヒーリングセラピストへの道・パート2

みなさま、こんにちは!

AmatoのMitoです。

Mitoというのは下の名前ですよ♪(よく苗字か?と聞かれます!)

ヒーリングセラピストへの道はこども英会話の英語講師として始まった♡

大学卒業後留学する時期を大体決めていたので、大学を卒業して正規就職することを自ら選ばず、
アルバイトとしてしか働いた経験がなかったので、就職活動に少し困難した。
26歳で初めての就職というのも遅かったし。

英語の実力とこれからの可能性、そして人間性を見て公平に雇用してくださる会社と出会い、契約社員として就職した。
大手英会話スクール。
会社の名前は公表しないけれど、その後約10年間、とってもお世話になった。
厳しかったけれど、この会社に雇用してもらったからこそ、今独立して仕事ができている私があるし、
しっかりと育ててもらったといえる。

♢ヒーリングセラピストへの道・パート1がまだの方はこちらをクリック♢

ヒーラー・セラピストへの興味はゼロ!

この頃に私がヒーラーやセラピストへの興味があったか?と聞かれたら、即答でNOと答えられる。

『治療家』として生計を立て私たち家族を養ってくれた母親の存在が大きすぎて、私がその道に進むことになるとは
まだこの頃想像もできなかった。

何度か母から私の中にある可能性について話をされた時に、即答で「それはお母さんの仕事やんな!私とは関係ない。
私は英語で食べていく!」とつっぱねた(苦笑)

その度に少し悲しそうな顔をしていたことを覚えている。

毎日が必死!

こども英語講師としての日々は毎日がカオスだった。
会社での上司の指導も厳しく(これは今本当におかげさま♡だと思えるきびしさだった)、
レッスンの質を向上させることが講師の責務であり、生徒・父兄のケアにものすごい時間とエネルギーを注ぐ現場だった。

講師のみをやっていたのが最初の2年、残り約8年はスクールマネージャー兼講師。


1日に多い時で8レッスンあり、それを毎日毎日繰り返す。
今の私にティーチングの引き出しがたくさんあるのは、この怒涛のレッスンのおかげ。
もちろん、いまは社会人の方を対象に英語を教えているので、全く違うといえば違うんだけれど、如何様にもアレンジできる基礎は
完全にこの時期に体に入った。


最初の2年間は、ほぼ毎日が睡眠不足だった。家の中はレッスン準備のための
手作りの単語カードやカード類や手作りの教材に溢れ、ぐちゃぐちゃ。

今でも整理整頓と片付けが苦手だけれど、当時は全くどうして良いかわからないため、毎日がサバイバル。
必死のパッチを地で行く日々。

お家に帰ってリラックスするなんて、全く考えられない日々。

1年目はお休みの日にデートとかもしていたけれど、映画館で眠りこけてしまったり、あくびばっかりしていた。
そのうち、フラれた(笑)

京都と神戸は電車で1時間くらいだけれど、通勤も難しくなり、神戸に転居し、実家に帰る割合も減った。

完全に仕事中心の毎日に変わった。
休日に寝るだけのサラリーマンや日中に疲れて気付いたらふと眠ってしまう働く人たちの気持ちが
よくわかる(笑)

やりがいにあふれた職場♡

そんなカオスの日々だったが、乳幼児から高校生までと毎日触れ合える職場。
子供達の可愛さと日々成長していく姿に喜びを感じ、とってもやりがいにあふれた職場だった。
保母さんや幼稚園の先生と英語の先生を足して2で割ったようなこともあり、もちろん大変なこともたくさんあるけれど、
1日の終わりにその大変さが消えるそんなやりがいを感じていた。

毎日スーツを着て、ハイヒールを履き、いかに「ザ!キャリアウーマン!」って感じで働いていた♡

毎日英語を話し、留学経験や帰国子女の同僚、アメリカやイギリスから日本きている同僚などとたまには飲みに行ったりもして、
楽しかった♡

でも、どこか?「これが本当に私がいる場所なのかな?」とたまにふとよぎる声があった。

突然の母の病!

2年目の終盤になるとスクールマネージャーにチャレンジしてみないか?というお声をいただき、
怖いし自信が無いけれど、かわいい生徒たちのため!頑張ってみるか!と本社で行われる研修に参加した。

本社でのマネージャー研修の最終日の前か?半ばか?はっきり覚えていないけれど、母と電話で話した。
その時に咳き込み&声がとってもくぐもっていることに驚き、
「お母さん、どうしたの?大丈夫??」と半ば怒り気味で尋ねた。

私は昔から少しオーラが見えた。
これは生まれつきなのか?母から幼少期に何らかのトレーニングを受けていたからか?はっきりとはわからない。
年始に祖母宅へ家族みんなで泊まりに行った際に、母のオーラがくぐもっていることに気づいた。
それを母に伝え「お母さん、なんだか変だから病院に行ってね」と言ったのだ。

そのことを思い出し、ちょっとおかしい!と思った。案の定、最終日に父から連絡があり、週末は京都に帰るように!と強く言われ、
本社から京都まで新幹線で帰り、父が駅までいつものように迎えに来てくれた。

そこから進んだ先は、家を通り過ぎ、少し先にある病院。
「母さん、入院した」と。

こういうことになったのか。。。と違和感との合点がいったが、それはそれはショックだった。
治療家として活躍していた母が病気になって入院した。しかも「肺がん」

私たち家族は母に頼りすぎていた。生計から家事から、全て。母はそれだけでなく、多くの患者さんや親戚から頼りにされ、
小柄な母の肩には100人以上の人たちが乗っていたと思う。
その中でも私と父は代表として母におんぶにだっこだった。

そんな母が病で倒れる。家庭の中も、飼っていたペットまでもみんな立ちつくした。

そこから母が亡くなるまでのわずか9ヶ月、私たち家族は母から自立していくことを学んだ。


ここからパート3に続きます。

Thank you so much for your reading!
See you next time♪

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